日本人スタッフBLOG台湾こばなし
台湾の歴史③(日本統治時代)
2022.01.14
下関条約により台湾を割譲された日本でしたが、台湾に住む現地の人々は日本の統治に抵抗し、初めの頃は台湾住民による武力抵抗の鎮圧に力を注ぎました。
まず初めに、日本政府は台湾統治のために「台湾総督府」という行政機関を台北に設けました。この総督府の建物はのちに「中華民国総統府」と名前を変え、現在も官邸として重要な役割を果たしています。
日本統治から初めの20年は台湾住民の抵抗が激しく、警察による武力での鎮圧が行われていました。
特に先住民が多く暮らす東部エリアでは武力抵抗が凄まじく、子供や女性までもが日本軍との抗争に参加していたと伝えられています。
※抗日運動で戦死、または逮捕、殺害された者は約1万人との説があります。特に、先住民による抗日暴動事件「霧社事件」は大規模なもので、2011年に「セデック・バレ」という題名で映画化されました。
こういった武力抵抗を収めるために、台湾の各所に交番を設置し、警察による地域の治安維持を実行しました。今でも台湾各所には交番や警察宿舎などの建物が残っており、それぞれ昔の状態に復元し、新しいリノベーションスポットとして活用されています。
総督府は台湾における国民意識の向上を課題として、いわゆる「皇民化政策(日本人化運動)」を推し進めました。
・改姓名
台湾人に日本国籍を取得させ日本国民になるよう求め、日本式の姓名を持つことが社会的地位にも有利になるとして、強制ではありませんでしたが、改姓名の政策を行いました。
・国語運動
日本語を使用するよう徹底化する運動で、台湾各地に日本語の講習所が設置されました。
家庭でも日本語を話すよう推奨し、台湾語や原住民語の使用は抑圧されていました。
また、教育の普及によって台湾人を日本に同化させるため、日本と同じ義務教育を採用し、当初は5%以下だった台湾人の就学率が、40年後には70%以上という世界的にも高い水準にまで上昇しました。
この政策については、現在の台湾の教育レベルの高さに一定の影響を与えていると言われています。
・宗教/社会風俗改革
台湾の宗教や風俗なども日本風のものに改良されました。
元々あった中国の廟を取り壊し、神社や寺などに改築されました。
※台湾各地には今も当時の神社の建物や狛犬などが残っているところが多く、修復やリノベーションなどによって、今でもその当時の面影を伺い知ることができます。
また、中国の伝統的な結婚式やお葬式なども、日本式の神前結婚や仏教式の葬式に改められていきました。
日本政府は台湾の資源と労働力を日本内地の発展のために利用するべく、段階的に経済構造を構築していきました。
台湾の経済発展の目標は、農産物や工業製品の生産工場建設により日本国内の需要を満たすことでした。
・インフラ整備
総督府は台湾の近代化のために都市整備を実施し、中でも鉄道建設が最重要政策とされました。
台湾南北を縦貫する「縦貫線」や各地方路線の他、阿里山鉄道など林業推進のために森林鉄道も整備しました。
また、道路の整備も積極的に行い、鉄道駅を中心にバス路線を整備したり、海運業の発展のために基隆港と高雄湊の築港を行い、大型船と鉄道連絡が可能な近代的な港湾施設が整備されました。
・水利事業
日本統治時代の台湾の主な主要産業は農業であったため、水利事業の整備は台湾の経済発展に重要な役割を持っていました。
※良質な砂糖、米、茶葉など、台湾から日本または世界各地へ輸出されていました。
台湾南部は大きな河川もなく、降水量も乏しい地域であったため、日本人技師の八田与一が10年の歳月をかけて烏山頭ダムを完成させました。
※台湾では八田与一は英雄として知名度が高く、烏山頭ダムのほとりには「八田與一記念公園」が建設されている。
・発電事業
台湾での工業化を推進するための発電事業も積極的に整備が進み、いくつもの水力発電所が次々に建設されました。
・金融
1895年5月に日本統治が始まると、9月には基隆に「大阪中立銀行基隆出張所」が設立されました。
1899年には台湾銀行が設立され、台湾総督府の委託を受けて台湾での貨幣「台湾銀行券」を発行していました。
この台湾銀行を通じて日本資本が台湾に大量に流入し、台湾の資本主義が発達していきました。
1945年8月15日、第二次世界大戦が終戦を迎えると、台湾は中華民国による接収が行われることになりました。
日本は1951年のサンフランシスコ条約により台湾における全ての権利や請求権を放棄し、施政権を失ったことで、約50年に及ぶ日本統治の歴史を終えます。